重症



 グランベルから追われたシグルド達は、シレジアのラーナ王妃の厚意によりセイレーン城を本城として長期滞在をしていた。季節は移り行き、そろそろ冬に差し掛かる頃。シレジアの者ならともかく、グランベルの人間がシレジアの冬に簡単に戦を仕掛けるのは現実的ではない。シレジアの深い冬はそれ相応の大変さがあることを重々承知の上で、シグルド達はその季節を歓迎していた。
 冬支度に取り掛かる彼らはそこそこ忙しかったが、その忙しさは平穏を物語る。束の間の平和な日々にいくらかシグルド達は慣れ、初めてのシレジアの冬支度以外は刺激も薄れてしまっていた。そんな折、少しの退屈さを払拭するように、彼らを刺激する噂が流れた。それは「レックスとアイラが恋人同士になったらしい」というものだ。またたく間にその噂は広がり、人々は「アイラはレックスのどこに惹かれたのだろう」と口にした。これについてはレックスに同情せざるを得ないのだが「レックスがアイラに惹かれているのは周知の事実」だったため、今更それへ理由を聞きたいと思う者なぞ、セイレーン城の兵士や女中ぐらいのもの。仲間達の注目がアイラ側に集まるのは当然の結果。アイラの立場を考えれば、グランベルの、しかもドズルの人間を受け入れることは難しいはずだ。しかし、それを越えたとなれば余程レックスが愛を語ったか、それとも……
「体か?」
と、酒が入った誰かが冗談めかして言い出したのが始まりだ。そこから下世話な話に膨らんだ末に「レックスはもしや床上手」と、非常に下卑た噂が尾ひれになって広まった。レックス当人の耳にも入るまでにそう時間はかからなかった。
  誰が最初に「床上手」などと言った俗っぽい言葉を使ったのかは最早わからないが、貴族の間で使われる言葉とは思えない。だからといってそう簡単にレックスに対してそんな言葉を使う平民はシグルド軍にはいない。どいつだ?とレックスが探っても、あまりの誰とも特定出来ぬ「ちょうどよさ」に煙に巻かれてしまう。噂とはここまで狡猾に出所がばれないように広まるものかとレックスはしみじみ唸った。
 一方のアイラは別段何を言われても気にはしない性格――性格はともかく彼女の肩書を考えれば十分気にするべきなのだが――だからいいとして、レックスは非常にいたたまれぬ気持ちになり、今日も兵士達が集まる休憩室でアゼルに愚痴をこぼす。
「まあ、いいじゃない」
 堂々巡りのレックスの愚痴に対して、くすくすと笑うアゼル。
「だって、それって本当のことなんじゃないの」
「何がだよ」
「レックス床なんとやらってヤツなんじゃないの? お父上に反発してあちらこちら遊び歩いていたし、噂は前から聞いていたよ。女性の夜の扱いは得意らしいじゃないか?」
「お前、虫も殺さないような顔して、すげえことさらっと言うよな? まさか俺の親友とやらが、そんな噂を鵜呑みにするとは思ってもいなかったんだが」
「そう? 僕からすれば、親友とやらが僕の顔をそんな風に思ってたなんて心外だけど」
 ああ言えばこう言う。レックスは苦い顔でアゼルを見た。 昔は性別をよく間違えられるほど可愛らしい顔立ちだったアゼルが、今は「床上手(と直接言わなくとも)」だとか「夜の扱い」だとか平気で口にするなんて。彼の成長を「逞しくなったもんだ」と喜んで良い気もするが、それとこれは話が違う。
「そこが本当かどうかはどうでもいいんだよ。だが、アイラがそんなことを基準に男を選ぶと思われるのはよろしくないだろう」
「まあまあ、誰も本気でそんなこと言ってないよ。彼女に限ってそんなことが基準になるはずもない。だから、笑い話になるんだろう?」
「本当かあー?」
「本当だよ。だから、面白おかしく言う方もそれにのる方も、彼女を貶めたりする意図はまったくなく君で遊んでいるだけだってことさ。人の色恋話なんて片恋の間が面白いんであって、いざ成就してしまえばこうでもしないと酒のつまみというやつにもならないしね」
 そんなことはレックスにだってわかっている。わかっていたって、下衆の勘繰りを受け入れたいとは思わない。それにしたって、アゼルまでそんなことを言うなんてどうしてくれようか……と意地悪な気持ちが湧いてきた。
「そんなこといってるお前の方はどうなってるんだ?」
「何が」
「ティルテュとはどうなった?」
「うん……?」
 ぴくりとアゼルの眉が動くが、それも微々たるもの。そこも、昔のアゼルなら、これぐらいで慌てるだろうに、というポイントだったため、心の中で「ふてぶてしくなりやがって」と毒づくレックス。
「相当仲がいい幼馴染ってやつだろ。俺が見てもそれなりに親密な間柄に見えるんだが、そういう気になってないのか? とっくにエーディンのことは諦めたんだろ?」
「レックスの誘導尋問にはのらないからね」
 アゼルはそれ以上レックスの言葉を許さず、涼しい顔でその場を去っていく。 彼は、彼の親友が目には目をと反撃することなぞとっくにわかっていた。そういう仲だ。そして、こういう時は、どんな罵声を浴びてもさっさと話を流してしまうのが一番だということも。実力行使でその場から消えるのはずるい、とレックスは口をへの字に曲げた。
「くっそー!食えない奴」
 それでも、自分の親友がこうやって変わらず自分の愚痴を聞いたりうまくいなしてくれるのはありがたい。「変わらない」と安心出来る関係がある幸せを、今のレックスは殊更に感じてしまうし、きっとアゼルもそうなのだと思う。自分達が故郷から追われている立場であることを一時でも忘れることは、お互いにとって必要なことなのだ。



 両思いになったレックスとアイラは、だからといって毎日共に眠るようになったわけではない。 夫婦でもないのにそんな義務は発生しないとお互い思っていたし、わざわざその意思を確認したこともないが、はっきりした約束がなくとも「なんとなく」彼らは自分たちが好きに振る舞うためお互いを尊重した結果「適当にしよう」というやたら曖昧な接し方が続いている。
 時折、アイラがレックスの部屋に、レックスがアイラの部屋に。それは、シレジアの寒い夜にお互いの温もりを求めてやってくるように、いささか気まぐれに、約束し合うわけでもなく、今日は来てくれるだろうかとそわそわ待つわけでもない。一緒に眠りたい、と思った方が素直に相手の元へ足を運ぶ。それだけだ。それ以外のことは何もない。それ以上何一つ進展はしておらず、人々が言うような「床」なんとやらという評価をレックスが得られるのは随分先のことのような気がする。
 それにしても。お互い好きあっていることは確認したのだし、噂通り「レックスとアイラは恋人同士」は間違っていない。だが、改めて他人にそう言われると「そういや、恋人って言葉を使ったことはないかもしれん」と、いささかレックスは呑気に思う。
 恋人なのだし、デートの一つでもしてみようか。付き合っているという噂が真実だと明らかにしても問題はないし。
 そんなことを考えながら城内を歩くレックスの耳に、素っ頓狂な声が聞こえてきた。彼が向かっている角付近には兵士用の詰め所がある。そこから大きな声が聞こえることは珍しいが、その声は知った者の声だった。
「本当に!?」
「ええ」
 興奮を隠せない男性の声。そして、柔らかな女性の声。どちらも十分にレックスが知る声だ。
「そうか……! ありがとう。ああ、本当にありがとう、エーディン……こんなに……こんなにも嬉しいことなのか……そうか……ついに、俺達の子供が……」
「は!? 子供!?」
 話に驚いたレックスは、声をあげて詰所に飛び込む。そこには、エーディンとジャムカの姿があった。
「なんだって?」
「あら、レックス」
「レックス。ああ、聞こえたのか。エーディンに新しい生命が宿ったんだ」
 ジャムカはいくらか照れくさそうに、けれど、高揚を抑えきれぬように声を少し上ずらせた。レックスは「こんなジャムカは知らない」と驚きつつ、幸せに満ち溢れている2人を呆然と見る。
「そうなの。赤ちゃんを授かったのよ。レックスも、祝福してくださるわよね?」
「ああ、おめでとう。よかったな」
 ありがとうと答えながら、エーディンはそっと腹部に手を当てる。彼女の腹部はまだ丸みを帯びておらず、そこに新しい命が誕生しているなんてレックスには想像もつかない。が、ジャムカは愛しげにエーディンの手にその手を重ねた。
「シグルド公子にご報告に行ってくるわ。本当に、ついさっきお医者様に見てもらって、ジャムカに最初に言いたくてここに来たの」
 ふわりと笑むエーディンの表情に、ついレックスも口元を緩める。ああ、エーディンも。彼女も知らない顔をしているな、と思いながら、気を利かせて
「ジャムカの代わりに俺がここにいようか? ジャムカが詰所当番なんだろう?」
と提案をした。
 だが、そのレックスの厚意を2人は丁重に断った。わざわざそうまでして共に行く必要はない、と。夫婦での報告はまた改めて明日にでも……と言うのはジャムカではなくエーディンだった。彼女は見た目からは想像が出来ないほど時々あっさりとしている。そこが、ジャムカとちょうど良いのかもしれない……そんなことを思いながら、レックスはもう一度祝辞を送って詰所を離れた。
 すると、数歩歩いた先で死角から声をかけられる。
「なあ、これでユングヴィとヴェルダンの仲は取り持てるのか? それとも、むしろ面倒になるのか?」
「うわ! どこから!」
 突然姿を見せるレヴィンにレックスは驚いてびくりと体を震わせる。が、驚かせた本人はそんなことは意に介さず
「お前、鈍いな。さっきからいたのに」
なんて言い放つ。きっと、普段のレックスならばそんなことにはならなかったのだろう。あれこれと考えながら歩いていたせいで、後を追ってきていたレヴィンに気付かなかったようだ。そのあれこれがアイラのことだと思うといささか気恥ずかしいけれど。
「……そうだったな。とりもてるといっても、そう簡単に溝が埋まることはないだろうし、逆に難しさもあるよなあ」
「そうだな。一度やらかした間柄で双方の血が交わった子供が生まれるってのは良し悪しだろう?」
 この旅の途中から、エーディンとジャムカのあまりの熱愛っぷりにあてられ、レックスもうっかりとしていた。そもそも、レックスがシグルドと合流した理由はエーディン救出のためだったと思い出す。ユングヴィが攻め落とされ、エーディンがヴェルダンにさらわれたことが発端で、レックスはアゼルと共にシグルドと合流したのだし。そして、ジャムカの父であるヴェルダン王を倒した後、ジャムカは自国を裏切りシグルド軍に身を投じる形になってしまったし、エーディンはエーディンで自分を助けてくれたシグルド達に共に行動したことによってユングヴィを離れ、反逆者として名を連ねることになってしまった。 それらを思えば、確かに手放しで喜べない。いや、それでも彼らはもう大切な友人だからこそ、手放しで先程は喜んだわけだが……。
「……どちらの国に戻ったって、今は居場所はないのにな」
 レヴィンは冷ややかに言う。が、それは間違っていないし、だからこそ反逆者としての汚名を晴らす必要がある。
 その点はレックスが考えていることとレヴィンが言いたいことは一緒だ。それに、言葉は冷たいけれど、レヴィンは2人を冷ややかに見ているわけではない。彼はシレジアの王子だが、そういったしがらみのない、放浪の吟遊詩人のように政治や貴族のあり方を遠くから見て他人事のように口にすることが多い。ただそれだけで、彼も2人の未来を心配していることは間違いがないのだ。
「それでも、愛しいと思う気持ちが強かったんだろうな」
 柄でもないことを言ってしまってレックスは自分で肩をすくめた。仕方なく無理矢理言葉を付け加える。
「それはわかった上で、あの二人は深く愛し合っている様子だし。考えてないわけじゃなかろう」
「……ま、お前さんだってそうなんだろうし、そりゃそうだろう」
 レヴィンの言葉にレックスは何も返さず、今度はわざと軽く肩をすくめてみせた。レヴィンは「悪かった」とぽつりと言って、レックスの肩をぽんぽんと叩き、その場から去った。



 数日後、シレジアの冬の始まりを感じさせるような雪が夜の間に積もった。そんな日に、レックスはアイラと出かける約束をしてしまい、大慌てで雪道用の靴を用意しなければいけなかった。もともと「そろそろ必要」とフュリーが気を利かせて揃えてくれていたのだが、用意された靴の試し履きをしている間にアイラと約束していた時間が迫っていた。
(待たせたらへそを曲げられるか)
 それとも、けろりとしているか。そのどっちになるのかは、レックスにはわからない。待ち合わ場所はセイレーン城のエントランスだ。急がなくてはいけないけれど、彼の足取りはなんとなく重かった。エーディン懐妊の話題で盛り上がっている女中達の話を途中で耳にし、改めて2人のことを考えればなんとも言えぬ不思議な感情が胸に広がり、ぐるぐると脳はあてどもないことを考え続ける。それは「今考えなくても良い」ことで、彼自身もわかっている。わかっているのに、どうしても脳が言うことを聞いてくれないのだ。
(そりゃ、やることやれば子供も出来るわな……ジャムカだろうが自分だろうが)
が、これからの自分達のことを考えると、反逆者の汚名が晴れない限りは何が起きるかまったくわからない。体を重ねたいと強く願うほどにアイラを愛していても、 踏み切れないことは自然ではなかろうか。
(大丈夫だなんて、一時も思っちゃいけないんだ、本当は)
 シレジアに滞在している間に心は少しばかり緩み、ついつい今ならば大丈夫ではないかと都合が良いことを思ってしまう。アイラと心が通じたと思えば、レックスだっていくらか浮かれてしまうし、その先を素直に思い描いたことだって一度や二度ではない。特に、なんだかアイラは彼女の血筋や肩書に無頓着と思われても仕方ないほど、あっさりと「体を重ねたいのか」と言い出すぐらいだし、煽られてすぐに手を出さなかった自分はえらいとレックスは自画自賛する。
 アイラはシグルド軍きっての剣の使い手だ。異様なまでの強さは、戦力としては頭ひとつ飛び抜けていると誰もが認めるほどの。言い方はよろしくないとわかっているが、アイラとエーディンとは戦での立場が違う。前線に出なくともエーディンは貢献をすることが出来るが、アイラは前線にあってこそ力を発揮し、大きく戦況を覆すキーパーソンでもある。
(それは、俺が戦場であいつを守るとか守らないとかそういうレベルの話じゃない。ここにいるすべての人間の未来にかかわることだ)
 それでも。きっと、シグルドに言えば「心配せずに、思うように愛を育くめば良い」 と言うに決まっている。そういう人物だ。だが、それで良いのだろうか。いや、レックスはきっとどちらでも良いのだ。許されたと思って安心をして、シグルドに責任を押し付けて好きなようにアイラを抱けば良い。
 だが、本当にそれで良いのだろうか。いざという時に、もし、アイラがエーディンように懐妊して。彼女が己の剣を振るえないことに自責の念を抱くような、そんなことになってしまったら。
 そんな、仕方がないことを考えつつエントランスに行けば、そこにアイラの姿はなかった。アイラも遅刻をしているのだろうか、と一瞬思ったが、いや、そんなことはない、とレックスは城から飛び出した。
「レックス、遅いぞ」
「悪い。なんで中で待っていなかったんだ」
「シレジアの冬の空気は嫌いではない」
「そうは言っても……」
 案の定、セイレーン城を出た所でアイラは白い息を吐きながら待っていた。
 彼女の首元には毛皮のマフラーがぐるりと巻かれている。彼女がそんなものを身につけるのは珍しいことだ。とはいえ、王宮貴婦人達が身につけるようなものではなく、どちらかというと猟師達が仕留めた獣の毛皮を戦利品として巻いているような風情で、それが逆に彼女に似合っているとレックスは思う。
「お前から呼び出したくせに遅い。もう帰る」
「待て待て」
 そう言いつつも、本当にアイラが帰ることがないとレックスは知っている。出会った頃ならまだしも、今ならば決してそんなことはしないはずだ。アイラはこういう時にレックスを困らせるのが実は好きなのだ。
「第一、今日はラケシスからも誘いがあったのだ。お前がこんなに待たせるなら、ラケシスと遊ぶ」
「あ、遊ぶ!?」
 彼女の口から誰かと「遊ぶ」なんて言葉が出るなんて。レックスは驚きで素っ頓狂な声をあげた。
「うむ。一緒に雪に咲く花を見ようと誘ってくれたのだ。レヴィンが教えてくれたらしくて」
「そうか。お前、案外とラケシスと仲がいいんだよな」
「そこで身分がどうとか言いだすつもりか?」
「いや。人間、どこがどう噛み合って仲良くなるのかわからんと思ってな」
「わたしはアグストリア流の外交術などわからぬからな。彼女が何を取り繕うが、どう見せようと振る舞おうが、あまりわたしには意味がない。それが彼女には良いのだろう。それに、今はお互い身内を失った身として、いくばくか通じる何かがあるように感じてしまう……まあ、どちらにしてもラケシスはベオウルフと出かけただろうからいいのだが」
 その言葉はアイラらしい、とレックスは思う。彼女が言う「アグストリア流はわからない」という言葉はひとつ間違えば己を卑下した物言いともとれるし、逆にラケシスの振る舞いへの苦言にもとれる言葉だが、彼女の本意はそのどちらでもない。アイラの言葉がはっきりと話す時はいつだって心のままの言葉だとレックスは知っている。
「そうか、ラケシスはベオウルフと出かけるのか……お前、一緒に行くつもりもないのに、わざと拗ねてたのか」
 図星をつかれたアイラは、少しだけ口を尖らせて不満そうな表情を見せた。
「そうとも言う」
 彼女がそんなことを口にするようになったことは、レックスにとっては喜ばしい。が、それを口に出せば次はない気がして「そうか」ともごもごと返事をすれば、その話題は終わった。
「レックス、馬には乗らないで、歩いていけるだろうか?」
「なんで」
「馬に乗ったら、ラケシス達の邪魔をするところへいってしまいそうだからな。同じ行動範囲に入りやすくなるだろう」
「お前でもそういうこと、考えるのか」
「……ラケシスは、まだ、大事な時期だからな」
 その言葉だけで十分レックスは察した。兄であるエルトシャンを失ったラケシスを誰もが心配したけれど、彼女を立ち直らせることは誰にも出来なかった。みなはそんな彼女にどう向き合えば良いのか、見守るしかないのか、ともどかしく思いつつ、他者を拒絶しようとするラケシスから一定の距離を保たざるを得なかった。下手をしたら一瞬で自害して後追いをするのではないかと噂されたほど、彼女は兄エルトシャンを愛していたからだ。その愛情の形がどういうものなのかは知らなくとも愛情の深さは疑いようがなく、だからこそどうしたら良いのかわからない、というのが人々の本音だった。
 そんな状況下で彼女と面と向かって言い合いを出来るほど、ずかずかと近づいたのはベオウルフだけ。その期間に2人は、これもまたどういった愛情の形なのかは周囲には理解が出来ずとも、なんらかの絆が結ばれたことは間違いない。だからこそ、その2人が共に遠出をするならば、第三者はいないほうが良いというアイラの配慮だ。
 アイラは比較的他人の心の動きに過敏ではなく、むしろ、余程のことがなければ相手がどう思っているのかを深入りしすぎない。彼女自身も己の心を口に出すのは苦手だったし、ならば、他人にもそれを求めず探らない。それはとても彼女らしいとレックスは思う。だが、先ほど彼女が口にしたとおり、身内を失うということや肩書き等、ここにいる立ち位置でラケシスに最も近しいのは、確かにアイラなのかもしれない。
 だからなのか、アイラはまったく誰にも一定以上は心を開かないが、ことラケシスに関しては同情とか共感とかとはまた一風違った感情があるらしく、珍しくこうやって口に出す。彼女が容易に他人のことを口に出すことはとても希で、どんなにそれが悲しみを伴う話だろうと、レックスは少しだけ羨ましいと思ってしまう。勿論、そんなちっぽけな嫉妬は恥ずべきことだとも百も承知なのだが……。
「じゃあ、歩いて行こうか」
「そもそも、どこにいくつもりなんだ?」
「どこでもない。この雪景色を二人で見ようかと」
「ふうん? 城を出ずとも毎日見られるのに?」
「バカだな。二人で見るってのに意味があんの。もちょっと静かなところにでもいこうぜ。いつもがやがや最近野郎達がうるさくてかなわない」
 くく、とアイラは笑って言った。
「そうだな、なかなかに賑やかな噂が飛び交っているようだしな。レックスは床上手だと聞いたぞ」
「お前! そんなとこだけ揚げ足とるなよ! それから、そういう俗っぽい言葉は使わなくていいの!」
 アゼルすら「床なんとやら」とぼかしたのに一体どういうことだ、とレックスは怒る。
「知らない言葉だったので、ホリンに尋ねて困らせてしまった。お前がどういう顔をするか見たくて口にしたが、この先一生もう口にしないだろうな……」
「そうしてくれ。で、俺の顔はお気に召したか?」
「内緒だ」
「ほんっと、お前ずるいだろ」
 そう言いながらレックスはアイラの手を握って歩き出した。



 セイレーン城から歩いて行ける林は、木々のため天馬も降りずシレジア産の馬すら通らず、人々が往復して抜ける道がある。その道を外れて少しばかり行けば、あまり人がが足を踏み入れない場所に古い猟師小屋が立っており、その周辺にはごろごろと石や木材が転がっていた。雪に足を取られながらも2人は小屋の前に行き、横たわった木材に積もった雪を払ってから並んで座った。
 この場所をフュリーに聞いた時は、猟師小屋の主が獣にやられて不在になったのかと思ったが、小屋の中には生活用品がほとんど残っておらず、だが、雪かきに必要なスコップ等は残っていたため、単純にここを引き払った様子だった。金目のものは残っていないが、かといって、何か金目のものを盗まれたような痕跡もなく、ただ、主が捨てていった小屋なのだろう。
「そういや、エーディンに子供が出来たそうだ」
 人々の噂を自分から聞きに行かないアイラなら、もしかしたらまだ知らないのでは、とレックスが言えば、アイラはけろりと答えた。
「ああ」
 ああ、とはどういう返事だ、とレックスは思ったが、驚いた様子がなかったので既にアイラが知っていたのだと解釈をした。
「本人に聞いたのか? それとも、噂か?」
「いいや、特に聞いていないが、少し前からそうじゃないかと思っていたしな。やはりそうなのだな、帰ったらお祝いを言わなければいけないな」
「は? わかっていた?」
「わかる。動きが変わる。自然と腹部を庇う動きになるし、自分の体を大事にしだす。無意識かもしれないが、話をしている時に腹部を触っていることも気になった。そこまで寒い日ではなくともひざ掛けを使っていることが多くなっていた」
「そうか? それは寒いから、じゃないのか」
「違う。動きが変わる、と言っただろう」
 こんな風にアイラが事細かに他人を見ているなんて、と驚くレックスは、そこで言葉を失った。アイラは憮然とした顔で自分を見ているレックスに気付いて、小首をかしげた。
「どうした?」
「お前、案外他人のことわかってるじゃないか」
「……わかるものは、すごくわかる。でも、わからないものは全然わからない」
「そりゃそうだけど」
「レックスのことは、まだわからないことが多い」
「お互い様だろ、そんなのは」
 そういうとレックスはアイラに顔を近づけた。それをアイラは拒まない。触れるか触れないかのかすかな冷たい口づけをアイラの唇に落としてレックスは離れる。少しばかり恥ずかしそうにアイラは笑み
「それでも、お前と共に眠るのは、悪くない」
「そりゃどうも」
 レックスも笑い返す。
 未だに何もしないで一緒に眠るだけの二人だが、わからないことが多くとも、共に眠り時間は愛しさに満ちている。そして、それをそうだと彼女が口にしてくれることがどれほど嬉しいことなのかとレックスは幸せを噛み締めた。が、アイラは更に踏み込んだ話を続ける。
「レックスも、子供が欲しいのか」
「はあ?」
「そういう話をしたいのかと思った。着くなりエーディンのことを言うから」
「いいや、そういう話をしたかったわけじゃない」
「そうか」
 そういうとアイラは顔をゆっくりと上に向けた。針葉樹の枝々の間から冬の日差しが降り注ぎ、葉や枝に纏った雪に反射する。きらきらと輝く樹木を目を細めて見る彼女の横顔を、レックスは何も言わずに見つめていた。
「イザークは緑が多い土地で……こんな風に雪は積もらない」
「だろうな。俺がいたところもそうだよ。だから、お前と雪を見たいと思ったんだ……どっちにせよ、この戦が終わったら、この雪を見ることはないだろうから」
「戦が終わったら、か。最近はそんな風に考えられなくなっていたかな……一生続くような気がたまにする。シャナンを守り続けることが、まるで永遠に続くような……けれど、私が自分で思っているより、今までの人生でそうであった時間は短いのだな」
 そう言いながら髪をかきあげるアイラ。
「……長かったんだろうさ、お前にとっては」
「ああ。多分」
 アイラはレックスを見ない。きっと、今彼女はイザークのことを思い出しているのだろう。
 その彼女の回想にとってレックスはただの邪魔物だ。イザークはグランベルと敵対することになり、侵略を許してしまった。アイラはシャナン以外の何もかもを失った。戦争というものは誰が加害者で誰が被害者といった単純な考え方なぞ出来ないが、アイラが失ったものに関してのみ言えば、レックスは加害者側の血筋であることは間違いがない。
 だから、尚の事、こんな自分がアイラと体を重ねて。ジャムカとエーディンのように子を授かるなんてことは、今の時点では「ありえない」と思えてしまう。いや、それは「そうであるべきだ」という理性での結論だ。
(本当は、ホリンに譲るのが筋ってもんだけどな)
 けれど、それはどうしても出来なかった。平時ならば、出来ただろうか?聞き分けの良い貴族のような振る舞いをしただろうか。いや、それでもきっと無理だっただろう。これまで自分が出会ってきた女性へ感じていた恋情と、アイラに対する気持ちは明らかに違う。大切だからこそ、理性に従おう。そう強く彼は自分に強いた。
 反逆者としての汚名を晴らし、グランベルとイザークの国交をどうにかして回復すること。そこが自分とアイラにとってはスタート地点なのだと思える。しかし、そのあまりの遠さに、自分がどこまで自制し続けられるのかと途方に暮れてしまうのも事実だ。
(俺も、相当ぬるくなったもんだな……)
 以前は、そんなお国のことはどうでもいいと思っていた。
 自分はドズル家でも次男だから、そういった政(まつりごと)については長男のダナンと父親に任せて、自分はいつだって奔放に生きられればよかった。 好きな女と好きなときに愛し合って、行きたい時に行きたい所に行って。
「レックス、どうした」
 そんな今までの人生を覆すように、アイラは自分にとても大きい荷物を背負わせる。そして、その重さがとても愛しくて、重ければ重いほど力を貸してやりたいとすら思う。それもまた、レックスにとっては初めての感情だ。
「いや……雪、綺麗だな。これからもっと積もるんだろうな」
「そうだろうな……いつまで、ここにいられるのだろうな。何もかもを忘れてしまいそうで……少しばかり恐い」
「恐いか」
「そうだ。恐い。春になって雪が溶けるように、イザークのことを忘れてしまいそうで、恐い……お前といると、特にそう思える」
「それは、悪いことなんだろうな、お前にとっては」
「そうかもしれない」
 別段強く感情が動いているわけではなさそうだが、アイラは彼女にしては珍しく自嘲気味の笑顔を見せた。そんな風に、知らない彼女を見られることが嬉しくもありせつない。
「……私はお前に泣き言をいうことが増えた気がする」
「多分、お前が思っているその泣き言は、泣き言にすら入らないぞ」
「そうなのか?」
「ああ……もっと、何でも思うまま話して、俺にお前のことを教えてくれ」
「レックスは私のことをよく知っているのに」
「知らないのはお互い様ってさっき言っただろ。いくら俺でも、お前の過去とか思い出とかさ……そういうものは共有出来ないしな」
「思い出か」
「ああ。思い出でも、なんでも」
 そう言うと、レックスはアイラの美しい黒髪を梳いて指に絡ませ口付けた。が、それだけでは飽き足らず、そのまま彼女の唇にもう一度。ゆっくり唇を離してから我慢が出来ずもう一度柔らかな唇を追えば、彼女もなすがままそれを受け入れる。
 こんな風に名残惜しさに唇を求めることなんて、今までそうそうなかったことにレックスはもう気付いている。更に言えば、こんなに貪欲に相手のことを知りたいと思ったことがあっただろうか?
(俺もかなりやられてるな)
「レックス」
「ん?」
 さすがにこれ以上はくどいか、とアイラから離れたレックスの名をアイラは呼んだ。完全に彼の虚をつくように、今度は彼女が彼の唇を追って、軽く触れ合うだけのキスをする。
 不覚にも一瞬呆けてしまうレックス。それから
「……呆れた」
と、ぼんやりと呟く。
「何が?」
「自分に呆れたの」
「?」
 何を言ってるんだ、とアイラはちょっとばかり眉根を寄せてレックスを見上げる。
「わたしにキスをされて呆れたのか?」
「いや、そうじゃなくて……うーん、まあ、なんだ」
 しかめっつらをしてレックスは仕方なさそうに言う。
「俺は、本当に……お前のことが好きなんだなあ、と思って」
「はあ?」
「……いや、いい、忘れろ」
 照れ隠しのため、レックスは乱暴にアイラを引き寄せて強く抱きしめた。
「レックス! 少し苦しい!」
 突然のことにアイラはその腕の中で暴れていたけれど、レックスは一向に力を緩める素振りを見せない。少し苦しいぐらいなら、少し我慢してもらおうと我儘を通すレックス。それにアイラも観念したように静かになった。 アイラが抵抗をやめれば、レックスの腕の力もいくらか弱まり、ただただ愛しい者を抱きしめる柔らかな圧へと変わっていく。
「どうしたんだ、レックス」
「……いいや、なんでもない。なあ、アイラ。今日も一緒に寝よう。明日も、明後日もだ。シレジアの夜は寒いしな」
「うん? わかった。じゃあお前の部屋に行けばいいのか?」
「ああ……まったく、俺が女に明日明後日の約束をすることなんて、初めてだぞ」
「ふむ。それでは私はレックスの初めての女になるんだな」
「お前、わかってて言ってるの、そういう殺し文句」
 アイラはくすくすとレックスの腕の中で笑う。ああ、もう。レックスは完全に降参をした。立場に見合った何も知らない箱入り娘かと思えば、あまりにも奔放で、けれど時に己の立場を十二分に守る頑なさを持ち、誇り高い剣士でもあるアイラ。それなのに、彼女は時々駆け引きに慣れた女よりもあっさりとレックスの心を乱す言葉を放ち、そして、何よりも。
「レックス、みろ、鳥が」
 雪が積もった枝から枝へと、鳥が羽ばたきながら細かく渡っていく姿。 飛び立つ衝撃で軽く枝がしなり、ぱさぱさと音を立てて落ちる雪は、日光に照らされきらきらと淡く光って地の雪に重なっていく。
 こんなことが一生にあるなんて。知るはずもなかった異国の冬の冷気にさらされながら、腕の中の温もりが愛しくて頭がおかしくなりそうだ。愛しさがつのるとは、こういうことなのか。あまりの自分の重症さ加減に目眩がする。
 レックスのそんな心なぞ知るはずもないアイラは、彼の厚い胸に頭をつけながらまた小さく「はは」と笑う。
「じゃあ、一緒に目覚めよう。明日も明後日も。目が覚めたときにお前が隣にいるのは、悪くない」
「……そうだな」
 そう言ってレックスはまたアイラを抱きしめる腕に力をこめた。アイラは声をあげなかったが、レックスの体に更に自分の体を強くこすりつけるようにすり寄る。そうでもしなければ、きっと苦しいほどレックスは力をいれてしまっているのだろう。
(どれだけ強く抱きしめても足りない)
 ラケシスにすら嫉妬してしまったり、アイラのことを考え過ぎて抱くことが出来なかったり。
 恋情がこんなにも大きくなれば、どんなに力を入れてアイラを抱きしめて足りないなんて。
 そうだ、体を重ねることが出来ないほど、大事に思う相手が出来るなんて考えたこともなかった。
 初めて知ることばかりで、自分の不甲斐なさとやるせなさに振り回される。だが、自分が知らなかった今の自分も案外悪くない、とレックスは自分の心をすべて認めて苦笑いを浮かべた。
(目が覚めたときにお前が隣にいるのは、悪くない……か)
 目覚めた時に隣に愛しい人がいるときの、あの胸の高鳴りをアイラも感じているのだろうか?
 きっと、アイラの「悪くない」は「結構好き」だ。そして、こんな自分を案外悪くないと思うレックスのそれも「まあまあ好き」といったところで、そこだけ自分たちは似ているように思えた。
 そうだ、この先のことは何も約束が出来ないけれど、今は二人で一緒に寝よう。
 せめて、寒さを言い訳に出来る間は。
 ようやく腕の力を緩めれば、レックスの腕に頭を沿わせて滑るように離れたアイラが、小さく彼に微笑みかけた。





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